誰そ彼とは?

お寺の音楽会 誰そ彼(たそがれ)は、音楽好きの僧侶と僧侶ではない音楽好き達が開催しているライブイベント。「本堂で音楽を聴いてみよう」という軽い気持ちから始まった、言わば"お坊さんのホームパーティー"です。
どうぞお気軽にお参り下さい。

※イベントについてのお問合せは、FacebookページまたはTwitterにてお願い致します。お寺への直接のお問合せはご遠慮ください。




誰そ彼メッセージ

自分を超えた大いなるなにか、
それを浄土真宗では阿弥陀仏と呼んでいます。
阿弥陀仏は、時間的にも空間的にも
無限の広がりを持ち、
わたしたちを包み込み、生かし 
無条件に救ってくれる、はたらきそのもの。
そのはたらきへの感謝から
自然と口にのぼるのが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

『誰そ彼』は、夜にだけやってくる、
音の粒子に彩られた束の間のお彼岸。
お念仏とアンビエント音楽が溶け合う本堂で
阿弥陀像を前に、仏のはたらきに思いを馳せる。
自分を超えた大いなる力への畏怖と
自分を超えた大いなるはたらきに包まれる安らぎ。
カフェにもクラブにもない、そんなアンビバレントな空間
『誰そ彼』をお楽しみください。

-文・松本圭介 (浄土真宗本願寺派 僧侶)
-画・加藤円正 (浄土真宗本願寺派 僧侶)


誰そ彼の由来



誰そ彼、という言葉をみなさんはご存知でしたでしょうか?
「たそがれ」と読みますが、今日では「黄昏」という漢字をあてる方が一般的ですよね。
民俗学者としても名高い柳田國男先生の『妖怪談義』に
"古い日本語で黄昏をカハタレといい、もしくはタソガレドキといっていたのはともに「彼は誰」「誰ぞ彼」の固定化した形であって、それも唯単なる言葉の面白味以上に、もとは化け物に対する警戒の意を含んでいたように思う。"
とあります。つまり「彼は誰?」「誰ぞ彼?」と疑いたくなってしまうような、人の顔も判別し難い時分を指しているという意味です。
また、同書には
"黄昏を雀色時(すずめいろどき)ということは、誰が言い始めたか知らぬが、日本人でなければこしらえられぬ新語であった。"
ともあります。黄昏を雀色時というなんて初耳でしたが、雀の羽根の色なんて誰でも知っていること。でも、それらの色が似ているから雀色時といったのではなく、雀の羽根の色を言葉で表そうとするとだんだんにぼんやりしてくる、その曖昧な感じが夕方の心持ちに似ているからなのだそうです。昼と夜、どちらともつかぬあの感じです。

お寺の音楽会のタイトルとしてこの言葉を選んだのは、会の行われる時間帯を示した"日本人でなければこしらえられぬ"言葉であったからです。
では何故、お寺の音楽会のタイトルを妖怪の本から引いたのかというと、夕暮れから夜にかけてのお寺の雰囲気はなんともお化けの登場を期待してしまうということもあるのですが、『ゲゲゲの鬼太郎』で有名な水木しげるさんは"妖怪は音である。"とおっしゃっているからです。
妖怪のなりたちには様々な理由があります。信仰や伝説等のおおきな事象から生み出された妖怪も居れば、個人的な体験が口承で共感を呼び、小規模な共同体レベルで機能し始め、それぞれが各地で交わりあって誕生したような妖怪も居ます。そういった[要素]が複雑に絡まりあい、一体一体がキャラクターを得るに至ったもの、それが現在僕らがよく知っている【河童】であったり【天狗】であったりなのです。
その[要素]として、[音]は実によく挙げられます。怪音・奇音、現代の都市部で生活している私たちは機械の音ばかりで出所の全くわからぬ音を聴くのは少ないと思います。しかし、それが昔のもの寂しい山村であったらどうでしょう?未知の領域に圧力を感じながら暗闇を歩いていれば、なんだかよくわからぬ音がたくさん聴こえてきてしまってもおかしくない状況はやってきます。
例えば、山道を歩いていて川の方から聴こえてくる「ショキショキショキ...」という音は【小豆洗い】という妖怪が小豆を洗っているのだ、という説明がなされました。[やまびこ]という自然現象は【幽谷響(やまひこ)】という妖怪として、鳥山石燕という江戸時代の画家により姿を与えられています。よくわからない状況・現象の説明として妖怪が機能していた事は、今よりも灯りの少ない時代にはよくあったのです。

都会だけれどもぽっかりと静かな時間が横たわっている"お寺"という場所をお借りして音楽会を開くのであれば、そういった怪音・奇音を感じる為の空間を作り出したいという想いで誰そ彼と名付けました。

-文・遠藤卓也(誰そ彼スタッフ)

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